月見山のものがたりを巡る
むかしむかし、月見山は歴史の舞台だった
ー若武者たちが見た景色を今、あなたにも
遥か昔から人々の暮らしを見守ってきた月見山。
この地には、歴史の教科書には載っていない、心躍るような物語が眠っています。
それは、平家の悲劇や源氏の武士たちの勇壮な戦い、そして地域に伝わる心温まる伝承。
さあ、時間旅行に出かけて、月見山の知られざる歴史を一緒に紐解いてみませんか。
このページでは、地元の人も知らないような、昔の月見山の姿に出会えます。
今からおよそ800年前、月見山を含むこの須磨の地は、源氏と平家が激突した「一ノ谷の戦い」の舞台となりました。
悲劇の武将・平敦盛と熊谷直実の一騎討ちの伝承や、源義経の「鵯越の逆落とし」など、教科書で習ったあの物語が、月見山のあちこちに今も残っています。
今も息づく歴史の足跡をたどる、時を超えた旅に出かけましょう。
「月見山」の名前の由来
そもそも、「月見山」という名前自体が、一つの美しい物語を物語っています。
その昔、このあたりは「須磨離宮(すまりきゅう)」があった場所で、都の貴族たちが海の近くで過ごすための場所でした。
紫式部の「源氏物語」の主人公・光源氏のモデルになったと言われている歌の名人・在原行平も、月見山から須磨の海に昇る月を眺めて、その美しさを楽しんだと言われています。
離宮公園には行平の月見の松碑も残されています。
特に、山から海に映る月の光は格別で、平安時代の貴族たちが月を愛でる風習があったことから、この地は「月見山」と呼ばれるようになりました。
『万葉集』にも詠まれた「須磨の浦」と言われています。
月見山から見下ろす須磨の海岸は、日本の歴史の中でも非常に古い時代から、人々に愛されてきた場所です。
日本最古の歌集である『万葉集』にも、須磨の浦(海岸)を詠んだ歌が残されています。
「ひも鏡 須磨の浦波 おも影に みどりぞえそむ 我も人見む」
(鏡に映るように、須磨の浦の波に、私の姿が映る。緑が映えるように、私も人々に認められるようになりたい)
この歌は、都を離れて須磨にいた役人が、故郷を思いながら詠んだものと言われています。
月見山界隈は、単に合戦や悲恋の物語だけでなく、古くから人々の心を惹きつける美しい場所として、文学や歌にも深く刻まれてきた場所なのです。
月見山に咲いた悲恋物語 〜松風村雨伝説〜
松風村雨伝説は、神戸市須磨区の月見山に伝わる悲しい恋の物語です。
昔々、この月見山のあたりには「須磨の海女」と呼ばれる海で働く女性たちが住んでいました。
その中には、とても仲の良い「松風」と「村雨」という美しい姉妹がいました。
ある日、「光源氏」のモデルになったと言われている歌の名人・在原行平(ありわらのゆきひら)が偉い人の怒りをかってしまい、都を追われてこの須磨の地にやってきました。
松風と村雨は、都からやってきた身分の高い行平と出会い、彼に仕えることになりました。
そうして、3人の間には深い愛情が芽生え、特に行平と松風は強く惹かれ合ったと言われています。
しかし、須磨での生活は長くは続きませんでした。
都で行平を追放した人たちが力をなくし、行平は都へ帰ることが決まったのです。
都へ戻ることになった行平は、松風と村雨に「都へ連れて帰ってあげたいけれど、それはできない。だから、この”狩衣(かりぎぬ)”と”烏帽子(えぼし)”をあげるよ。この服を着ている私だと思って、大切にしてほしい」と言い、都へ帰ってしまいました。
狩衣と烏帽子をもらった松風と村雨は、行平が去った後も彼を思い続け、毎日、海を眺めて光源氏の帰りを待ったそうです。
悲しみに暮れた二人は、やがて行平にもらった服を着て、行平に会うことを夢見ながら亡くなってしまったと言われています。
松風と村雨のお墓
須磨の月見山には、松風と村雨の悲しい物語を伝える場所がいくつか残っています。
その一つが、行平や源義経が祈ったとされる多井畑厄神(月見山エリアより3kmほど北側・バスあり)の西隣の「松風村雨の墓」です。
悲しみに暮れた二人は、やがて「松風村雨堂」と名付けられた行平の暮らしていた住居の傍らに移り住み、観音菩薩をまつり、行平にもらった服を着て彼の無事を祈り続け、行平に会うことを夢見ながら亡くなってしまったと言われています。
悲しい恋の物語が、今も大切に語り継がれています。
この「松風村雨堂」には、松風と村雨が行平にもらった”狩衣”と”烏帽子”を掛けたと言われる松の木も残っています。
若き武将の最期 〜平敦盛と熊谷直実の物語〜
月見山のすぐ近くは、源氏と平氏が激しく戦った「一の谷の戦い」の舞台です。
平敦盛は、平安時代の終わり頃に活躍した武将です。
特に、源氏と平氏が戦った「源平合戦」で有名な人物です。
平氏という一族の中でも、とても若くて、美しい顔立ちをしていたと言われています。まだ16歳という若さで、戦場に向かいました。
敦盛にとって、この戦いが初めて参加した戦でした。源氏の武将である熊谷直実(くまがいなおざね)という、とても強くて経験豊富な武士が、戦場から逃げようとする敦盛を見つけました。
直実は敦盛に「逃げるな!」と呼びかけ、二人は戦うことになりました。
しかし、直実が敦盛の顔を見ると、そのあまりの若さと美しさに驚きます。
敦盛は、直実の息子と同じくらいの年だったのです。
直実は「この若者を殺したくない」と心を痛めます。
悲しい最期
直実は、敦盛を助けてあげたいと思いましたが、戦場ではそれは許されません。
もし自分が敦盛を見逃せば、他の心ない武士に殺されてしまうだろうと考えた直実は、悲しい決断をします。
直実は涙を流しながら敦盛の首をとり、敦盛を深く哀れみました。
この物語は、敵であっても相手を思いやる心や、命の尊さを教えてくれる、とても悲しく、美しいお話として、今も語り継がれています。
この悲しい物語が、須磨寺と深く結びついています。
敦盛を討った熊谷直実は、自分の行いを深く後悔し、仏門に入って敦盛の冥福を祈る生活を送ることを決意しました。
須磨寺には、この物語にまつわるものがたくさんあります。
- 敦盛の首塚:敦盛の首が埋葬されたと伝えられるお墓があります。
- 熊谷直実と敦盛の像:直実が敦盛を討ち取る瞬間の像が、境内にあります。
- 敦盛が使ったと言われる笛:敦盛は笛の名手でもあり、戦場にも笛を持ってきていたと伝えられています。
敦盛の首塚「敦盛塚」(須磨寺)
熊谷直実と敦盛の像(須磨寺)
敦盛の「青葉の笛」(須磨寺)
